れしをそう。

嘘。そう全部、嘘。Twitter:@nisemonoko

かんたんえにっきvol.9

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 にがつ、にじゅーにち。

1週間「ウォーキング強化週間」 を実施した。

 

歩いていると、なんか自分が好きになれるような気がしてくる。

だから1週間毎日続けてみたけど

何も得られなかった。

 

だからまだ続けてみることにする。

何か、変わってくれるまで続けてみることにする。

何かと友達になれるまで、続けてみる。

 

そう決めた、1週間

「ウォーキング強化週間」だった。ありがとう。

怖い。

ぎっくり腰になった人のお見舞いに行って

自分に置き換えた時、すごく怖くなった。

 

私はこれまで入院をしたことがないので、入院生活を想像するだけでも怖かった。

あと、私は幸いにも大きい病気をした事がないので

最近よく、病気についてを考える時間が増えて

また、自分が病気になってしまったことを想像して怖くなった。

それに、私はこれまで、傷をして縫ったこともないので

手術をする時の恐怖心を想像してとても怖くなった。

自分の体に、メスが入る怖さとか、針が突き刺さる怖さとか

注射針しか指したこと無い私にとってはとても怖くなった。

 

どうしたら、「痛さ」から避けられるのだろう。

どうしたら、「病」から避けられるのだろう。

その先に「死」があったとしても

私は、「死」までの、「病」や「痛さ」が怖い。

 

「死ぬことって怖くない?」と昔誰かに聞かれた事があったけど

私は特に、「死」に対して恐怖を感じた事がなくて

そこに至るまでの「苦しみ」や、「痛さ」「悲しみ」などが一番怖い。

 

例えば、足を切られたとしても

痛い痛い。ともがいている瞬間とか、アドレナリンが出たとしても

自分の切れた足を眺めて、「死」を待つまでの時間が怖い。

 

それは「病気」になったとして

余命宣告をされたとしても、それまでの「闘病生活」が怖い。

 

どうせ「死ぬ」なら、苦しみたくないし、痛みに泣きたくないし、「生きたいなぁ」とか思う時間なんて欲しくない。

怖い、怖い、怖い。

 

 

ぎっくり腰になったら、当たり前の生活がどんだけ幸せかを感じる。

そんな、ぎっくり腰にならなかったら気付けなかった事があるように

自分が「死」を目の前にした時の、ほんとの恐怖なんて、経験をしないとわからないんだろう。

それが何よりも怖い。

 

いざ自分がそこにたったときに抱く感情が想像できないのってすごく怖い。

 

こんな私はほんとに臆病だ。

生きる。ってほんとに怖いんだもの。

かんたんえにっき。vol.8

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にがつじゅーはちにち。

 

髪の毛を切った。

やっと一年前に抜いたブリーチの部分を無くす事に成功した。

 

もうしばらく長年、ブリーチはしない。と誓った。

 

が、きっと3ヶ月後か、4ヶ月後か、何ヶ月後かしらないけど近いうちに私は、

今の気持ちを忘れてしまっていて

何かに取り憑かれたかのように、突然ブリーチをするような人間だから

私は私が嫌いなのだと思う。

 

肩まで髪の毛が伸びたら、髪を切りにいく。

私はいつからか髪の毛を伸ばせなくなった。

それは、自分に長い髪が似合わないってことを悟ったからなのか、当たり前のように「伸ばそう」とも考えない。

 

でも髪の毛を切る時にいつ思うのは

「一緒に過ごしてきた髪の毛なのに何の感情も抱かずに切られた髪の毛に目も向けないのは可哀想」

だから私は、切られた髪の毛を、私の近辺に散らばった髪の毛をちゃんと見るようにしている。

 

「この髪の毛とはどれぐらい一緒にいたんでしょうか」

と言った時は美容師さんに驚かれた。

「変な事考えるんですね。たぶん2年くらいちゃいますかね」

 

すると、2年くらいの私の事を思い出そうとして

何もでてこなくて、思い出すのを諦める。

 

「あんまり思い出も無かったんで、捨てちゃってください」

 

たんなる髪の毛を切る。という出来事にさえも

こんな無駄なことを沢山考えてしまうのだから

私は私が大嫌いだ。

 

肩まで伸びる前に髪の毛を切る習慣をやめない以上

私が毎日に満足できるようになるまでは

切り刻まれた髪の毛に私は何も抱かないのだろうな。

 

早く、髪の毛を伸ばしても似合うように努力しよう。

早く、毎日に満足できるようにしよう。

頑張るのをやめないでいよう。

 

 

わたしってなんなの?何したら死ぬの?。

別に音楽が無くてもきっとうまくいくのだろう。

息ができなくなるわけじゃないし、お腹が空かないわけでもないし

なんせ、死ぬわけでもない。

 

彼がいなくてもきっとうまくいくのだろう。

息ができなくなるわけじゃないし、私が私を好きになれるわけでもないし

そう、死ぬわけでもない。

 

私の好きなものが全部この世から無くなっても

きっと私は息をし続けてしまうのだから、生きていけるのだろうから

与えられなくて、満たされなくて、求めすぎて苦しくて、失ってしまっても

別に泣く必要はないのだと思う。悲しいけど、それが現実なのだと思う。

 

しかし、私は音楽が無くなったら歩けなくなると思い込んでいて

彼がいなくなれば息ができなくなると思い込んでいて、

ご飯が食べれなくなって、私は私を嫌いになるんだって

信じる事を辞めないでいる。

 

でもそれは何故なのかといえば、

〝ちゃんと生きていけるように〟なのだから、それはそれは大変矛盾している。

 

好きなものが全て明日無くなっても、私は変わらず息をし続けてしまうくせに

〝生きるために〟〝これが無いと死んでしまう〟を持ち続ける。意味不明だ。

どうしようもないほど、支離滅裂すぎて、私は私が解らなくなってくる。

 

もしかして、音楽も彼も失ってしまったら

また新しい〝これが無いと死ぬ〟を見つけて、守っていくのかもしれない。いけるのかもしれない。

 

例えばそれが、決して与えられないものだったとしても

手にする事が不可能だとしても、私は私を生かしてあげるために

〝これが無いと死ぬ〟を持っていないと死んでしまうのかもしれない。

 

ん?

結局私は何かが無いと死んで

誰かのために生きないと、死んで

好きなものを失って泣くのは必要なのか?

 

と、すると

私は何かに生かされてる。と感じてないと死ぬ生き物なのかもしれない。

 

よくわからないので

試してみたい。全部手放してみたい。

そこに何があるのか見てみたい。

 

すべて失った時

〝死〟なのか〝生〟なのか

私はどちらを選ぶのかを知りたい。

 

ただこれは

もしも、私に勇気があればの話だけど。

 

 

 

明日の私に「ただいま」。

街を歩いていると、どこからか、お線香のにおいがした。

そのにおいを頼りに私は、歩き続けた。

目をキョロキョロとさせ、鼻をクンクンさせて、たどり着いた場所は、人形供養の神社だった。

 

そこには人形がズラーッと沢山並んでいて、一瞬ゾワッとしたけれど

しばらく、お線香のにおいに包まれながら、ただただその光景を眺めていた。

 

人形には魂が宿る。とは昔聞いたことあったけれど

その場所に立ち尽くしながら、私は確信した。

たぶんそこに並ぶ1体1体に魂が宿っている。となんだかよくわからないけれど、確信した。

 

 

私がまだ子供の頃、人形遊びをして、人形同士を会話させて遊んでいた事を思い出した。

 

「ねぇ君は、誰かに支配されているって思う?」

「思わないよ、そんな事」

「私はね、気付いたんだ。私達は、誰かに支配されて今動いてるんだって」

「え?一体誰に?」

「知らない。」

 

たぶんこんなような会話をさせて、私は興奮していたのだと思う。

だって、誰かに支配されているのかも。と、戸惑っているその人形たちを支配しているのは私だったから。

なんだか、そのシチュエーションにすごく興奮していた。

 

そして、私は夜眠る時、いつもこんな妄想を膨らましていた。

 「私も誰かによって支配されて動いてるんだろうな」

 そんな根拠も無い、意味不明な解釈をして

「今寝ると思ったでしょう?私は眠りませーん。」

みたいな、よくわからない誰かに対しての反抗をしたりして遊んでいた。

だいぶ狂った子供だったのだと思う。

 

そして、よく夢を見た。

それは私が支配している、その人形たちと一緒に暮らす夢。

 

人形たちは、私の事を一瞬たりとも疑わなかった。

まさかいつもこの人に操られているんだ。なんて気付いてもいなかった。

人形たちはいつも優しかったし、私を小さな部屋に招いて、何時間も一緒に遊んでくれた。

その夢は、いつも楽しかった。

 

だから私は、その人形たちがとても大好きだったし

一生、一緒に遊んでいくものだと思ってた。

感情移入もしていたし、私がいつか大人になってしまうんだ。なんて思ってもいなかった。

 

 

そして何年も経ち、私は気づいたら大人になっていた。

 

そして今、人形供養の神社の前で、久しぶりにあの頃一緒に遊んだ人形たちの事を思い出していた。

 

今どこにあるのだろう。きっともう捨ててしまったのだろうな。

 

何故か無性に「ごめんね」と謝りたくなった。

今日まで思い出さなくて「ごめんね」と、あんなに沢山私に優しくしてくれたり、一緒に遊んだのに

忘れてしまって、魂を宿しておいて何もしてあげられなくて、

もういらない。って何の感情も抱かずに捨ててしまって「ごめんね」と、すごく悲しい気持ちになった。なんだか泣きたくなった。

 

もしも、その人形たちに本当に魂が宿っていたとするならば

私を憎んでいるだろうし、私に気付いて欲しかっただろうし、寂しかったに違いない。悔しかったに違いない。

 と、そう思った私は

人形供養の神社の前で、

「あの頃の私の大好きな人形たちさん、私はあなたたちと過ごした楽しい時間をちゃんと覚えてます。

いや、思い出しました。

あの頃は、優しくしてくれてありがとう。安らかに眠って。愛してるよ」

と、目を閉じ心で祈った。

 

 

きっと、こんなこと無駄だと思う。

きっと、馬鹿馬鹿しいことだと思う。

 

でもお線香のにおいに、酔いしれた私は

あの頃の記憶を少しだけ思い出せた。すごくいい時間だった。

 

 

街を歩いていると、色んなものを拾う。

そして色んな感情や、思い出に出会う。

 

私は、そして、また歩き始める。

過去ではなく、明日に歩き続ける。

 

そして帰るべき場所に、明日の私に笑顔で「ただいま」と言う。

 今日を生かしてくれて「ありがとう」 と言うのだ。

神様のお気に入り。

「君だって、神様のお気に入り」

今日、感動を覚えた言葉。

「志のある3流は4流」

昨日、衝撃受けた言葉。

 

日々、言葉を目から、そして耳から脳みそに入れ込んで

その後、心へ流し込む。

私の心の、「人生に必要そうボックス」の中身が増えていくことが最近は、嬉しくて仕方がない。

 

ある日の友達との会話

「浮気してしまうのかなぁ」

「うん、無い。とは言えないよね、結婚してもお互いが」

「不倫するってどんな気分だった?罪悪感とかあった?」

「それは最初だけだね」

「結婚してて、ちがう人と何かを始めるキッカケってなんなんだろ。理性とかをどうやって越えるの?」

「うーん、何かお互いの相手に不満を抱いていて、責めていて、それを補ってるだけなんだ。って自分を肯定してるのかもしれない」

「あぁ。罪悪感はその後?」

「罪悪感というよりも、なんていうか、諦めのような」

「あ、なんか昔こんな言葉があったよ

“傍にいて欲しい人ではなく、いなくなって悲しい人を選びなさい”」

「あ、そう、自分はこの人の子供にとっては憎い存在で、子供にとってのこの人は、いなくなって悲しい人なんだ。って思って辛くなることはあったなぁ」

 

この1年、その友達は、自分の悪いところを成敗しようと必死に生きた。

自分がこれまで犯してきた罪を償おうと必死に生きた。

私は、その友達の越えようとした事も、下唇噛み締めながら自分を憎んでいた事も

全部、この目で見てきたつもりだった。

 

そして友達が最後に言った

 

「私、もう罪は償えたかな?」

「今が幸せだから怖いの?」

「うん、全部とは言わないけど、少しは償えたのかな?って」

「あなたは、頑張ってここまできたよ。

私は全部見てきたつもりだよ。頑張ってた。

だから今こうやって色んな事を考えられてる。昔の君は人の事なんて考えられなかったし、全部自分が正しい。でやってきた。

だけど、今は違う。自分のやってきたことを“過ち”だと捉えて、今だって償おうとしてる。何かを感じようとしてる。

越えようと、変えようとしてる。それだけで全然1年前とは変わってる。

まだ償えた。とは、私には言えないけど、今、胸を張れる幸せを見つけられたって事は、ちゃんと進んでこれた。って事だと思うよ。

これからも成敗していかないといけない事があったとしても、今の君なら必ず償える。って思うよ。」

 

私は、その友達が力強く生きる姿に何度も救われてきたし

その友達と何十年も一緒にいるけれど

自分の弱い所とか、寂しい時とか、辛い時とか1度も話した事はないけれど

私は、私の全部を知ってもらってる。って思えるし

私は、この人の全部を知ってる。って思う。

 

たぶん、彼女が、誰かを殺して殺人犯になっても、

強盗犯になっても、私は彼女を信じると思う。信じ続けてるんだと思う。

 

私にとっての彼女は

「傍にいて欲しい人ではなく、いなくなって悲しい人」

なのだと思う。

 

この先、私が誰かと永遠の愛を誓うとするならば

その人が、いつか何もかも無くなってしまったとしても、愛していけるかどうかで選ぶのだと思う。

何もかも抜いても、その人を愛してるか。一生一緒にいたいか。を考えると思う。

 

私にとって

いなくなって悲しい人かどうか。を考えると思う。

つまり、中身を愛してたい。

 

 

日々こうやって沢山の事を学ぶ。

周りにいる人や、こんな私にでも関わってくれている勇者たちから学ぶことが、数多くある。

 

ひとつひとつの大切な言葉、愛、温もりを

私の心の「人生に必要そうボックス」に全部しまい込んでく。

そして、改めて

みんながいてよかった。って思う。

 

そして、まだ生きよう。って思える。

みんなのそばで生きていきたい。って思う。

 

だって私も君たちも

「神様のお気に入り」だから幸せになれるんだって思うから。

幸せになっていいんだ。って思うから。

 

かんたんえにっきvol.7【Valentine編】

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にがつじゅうよっか。

きょうは、ばれんたいんだった。

 

女の子は朝方までチョコをつくっていた。

男の子は朝方まで“バレンタイン”ということについてをツイートしていた。

それは、悲しいくらいに私にはどうでもいいことだった。

 

私だって昔は、朝方までフォンダンショコラを作ったり、クッキーを焼いたり、ケーキを焼いたりした事もある。

好きな人の事を思い浮かべて、喜んでくれますように。って祈りながら真っ黒いチョコレートをお鍋で溶かして、また固め直した事もある。

 

でも、捻くれてる私はいつしか

バレンタインという何かに支配されているのではないか?と考えるようになった。終わったんだ。

 

それはチョコレートがどう。とか

好きな人や、彼氏がどう。とかではなくて

世界に沿う事自体が嫌になったんだろうと思う。

 

【2月14日は好きな人や彼氏がいない人が可哀想】

【2月14日は好きな人や、彼女にチョコを貰えない人は可哀想】

といった、謎の上下関係がその日には生まれている事が、憎い。しょーもない。

 

「可哀想だね」と言う人が可哀想だ。と思って生きてきた私にとっては、

Xmasと並ぶくらいに憎い。というか、醜い日のような感じがしてしまう。

 

だからといって、バレンタインに好きな人と無事、結ばれました!っていう人を心から祝福できないなんて程、私もまだ終わってはいない。

今日ひとつの幸せを手にできたなら!それは喜ばしい事だと思う。

 

幸せを手にする、キッカケになる良い日。だとも思う。

 

もしもバレンタインに悲しくなった人がいれば

それは、もう世界に殺されているよ。と言いたい。

 

この世には、もっともっと他に楽しい事はあるし

今日じゃなく、違う日にでもチョコレートは渡せるし、貰う事だってできるし、

愛の告白だっていつでもできるんだよ。って言いたい。

 

支配されていることに、少しだけ目を向けてみると

バレンタインなんて、単なるパッケージみたいなものでゴミ箱にポイできるよ。って言いたい。

 

そんな今日の私はというと

冷蔵庫の中に入ってた、誰かが貰ってきたチョコレートを片っ端から食べた。

1粒づつ全部味わって食べた。

 

「このチョコを選んだ人はセンスがあるなー」とか

「なんでこれにしたんだろ」とか

「おお!おいしい!これ今度買おう!」とか考えながら食べた。

 

もちろん、手作りっぽいやつだけは除いてだけど、食べた。

 

そして

ひとつだけ私は私を騙してた事に気づいた。

 

「バレンタイン」に頼って、「ダイエット」を無視していい日に勝手にしてしまった。

 

しまった!私もバレンタインに支配されて今日を生きてしまっていたんだ。

 

ハッピーバレンタイン!!