NONSTOP期待
〝期待〟には、いったいどれだけの力があるのだろう。
試練を超えるほどの強さを与えてくれるものなのか、それとも、プレッシャーという弱さを与えてくれるものなのか。
28年間向けられ続けた〝期待〟に、私はまだ何一つ答えられずにいるけれど
色んな汚いもので散らかった道を、汚れないように避けながら歩いているだけだけだけれども。
だけど、ずっとこのままではいかないということは重々に理解していて、
いつか私に向けられた様々な〝期待〟という巨大なボスと戦うべき日はくる。の承知の元で〝期待〟を避けながら日々を生きている。
いつか誰かが
悟りを開いたお坊さんみたいな面をして私にこう言った
「越えられられない壁なんてないんだよ」
何年も何年も、私はそれが腑に落ちなかった。
それを認めた時、越えられない壁の手前で「もうむり。越えられない」と、果ててしまった人達の苦悩や悲しみはどうなるんだ。報われないじゃないか。
「幸福は皆平等」
この言葉並に信ぴょう性が無くて、無責任な言葉だな。
と、モヤモヤしながら私は生きてきた。
だけど生きていると色んな人と出会う。
いい意味で私の中の何かを刺激し、揺らがしてくれた。
色んな越えられない壁を色んな方法で乗り越え、それぞれの正解を見つけだして、強く生きていたりする人達にいちいち私は、〝期待〟してきた。
「越えられないだろう壁だったけれど私は諦めなかったよ」
と、言った人は「越えられない壁」を目の前にした時、今の自分には、その壁を何をしても越える事ができないだろう。と、自分の弱さを認めたんだと。
そしてその後、彼は諦める事をせずに、一つ前のマップに戻っては、必死に経験値上げに励んだ。
そうやってある程度のレベル上げをして、またその壁に挑みに行ったんだと。強い。
そうして、その人の「越えられない壁」は、「越えられた壁」になったと。
越えられない壁をどう捉え、どう越えようとしたのか。どの角度からその壁を見たのか。
それによって、得るものが変わっていくのだという事を、私はその人から教わった。
要は「越えられない壁なんてない」 は嘘で、今の自分には越えられない壁。は存在する。
肝心なのは、その壁を
越えようとするのか、諦めてしまうのか。
そこが重要なのだと、私なりの理解をした。
越えられない壁の前で、果ててしまった人は、〝諦めた〟からだ。越えられない壁だったからじゃない。
越えられない壁の前で、今の自分の能力を客観的に捉え、その壁を越える力を得るため努力した人は、
〝諦めず越えようとした〟だから、越えられる壁になった。
そうか、やっと解ったぞ。
つまり、正解は
「越えられない壁はある」けれど「越えられない壁でも乗り越える事はできる」だ。
話はだいぶ逸れてしまったけれど
現時点で様々な〝期待〟に答えられていない私が、いつかそのすべての〝期待〟に答えられる日が来るとすれば、
越えられない壁を乗り越える為の試練をただ身を潜めながら耐えてる今の自分を、全力で肯定してあげる事ができる。抱きしめてあげられる。という事だ。
私は私の為に、この答えを導き出すことに成功したという事だ。
あの日「越えられない壁はないよ」の言葉に漠然と抱いたモヤモヤを成仏させてあげる事ができた。という我への朗報。
私は答えがないものがずっと好きだった。
それは、そこに自分なりの答えを注ぎ込む事ができるからだと思う。
これからも、くだらない何かと張り合って生きるつもりはない。ずっと、我が道を行く。でいい。
そんなふうに、私はずっとこうやって人生をやり過ごしていくんだろつ。
道端に落ちてるゴミにいちいち感情を委ねて、自身を疲れさせて生きていくんだろう。
ひとつひとつの事に気を取られながら、自分なりに納得できる正解を見つけ出し、〝簡単〟を偽装して、ゴキゲンナナメに生きてくんだろう。
上等じゃないか。立派だ。
私の人生の答えは私が見つける。
私の前の〝越えられない壁〟という〝期待〟は、ある日〝乗り越えずにきた壁〟になり、〝乗り越えないといけない壁〟になって
〝簡単に越えられた壁〟にさせてみせる。
その為に、私は「人として褒められる自分」を創る事に集中しなければならない。
「あの人には何も無いけど、人としては立派」を目指す。
だから君たちは、また私に〝期待〟しててくれていい。そんなの喰い滅ぼしてやるから、〝期待〟を与え続けていてほしい。