れしをそう。

嘘。そう全部、嘘。Twitter:@nisemonoko

情緒くんさよなら、さよなら情緒くん

初めて〝安定〟とか〝安心〟が欲しくなった時、やっとたどり着く

「安心して安定の中に居る人はこの世に存在するのだろうか」

すると私は自分の強欲さ、烏滸がましさ、醜さを知る。

 

自分の事だけを考えていると

「取り残されたようだ」と、まるで〝不幸〟が自分にだけ微笑んでくれているように感じる。

なんだ、これも烏滸がましすぎて寒気がするじゃないか。

 

であれば

「他人の事なんて考えてる余裕ない」が、どれ程に自分を〝不幸〟へ追いやっているのかを知る。

 

この世に〝絶対〟など存在しない事を知ってるつもりだけど

何度だって探してしまうのが、欲深さだよ。

 

まるでそれは、宝くじを買うような感じ。

「買わなきゃ当たる事も無いじゃないか」

「信じなきゃ叶うものも叶わないじゃないか」

目には見えない神様を信じるような、欲深さ。

 

ないものねだりを繰り返す内に

自分には何があって、何が無いのかを忘れた。

あんなに〝孤独〟を愛していたはずなのに

「あなたとずっと一緒にいたいよ」と、雌の顔をして吐く時の烏滸がましさを、咎められるべきだと思う。

 

ならどうして私は、〝安心〟と〝安定〟を求めだし始めたのだろうか

 

他人の〝安定〟を見たから?他人の〝安心感〟を羨ましいと思ったから?

違う。どちらも違う。

 

そう私は〝安定〟を求める自分に〝安心〟したかったからだ。

いっさい周りなんて見てやいない

私は私しか見ていなかった。

「あなたとずっと一緒にいたい」と吐くあの瞬間だって

私は私しか見てないんだった。

 

 

そう

自分を〝不幸〟に追いやっているだけだった。

 

 

 

兎にも角にも、この世は上手くできている。

何年か前の苦労や悲しみを、今日には「あの日があったから」なんてシャラシャラと奏でたりするのだから。

大切なことに気付くのはいつも後で、その瞬間の対処など大人になればなるだけ、できそうになくなった。

目の前の欲しい物に手を伸ばしてる時の方がよっぽど、〝大切〟を落とさないで済んだろうに。

 

どんどん醜さを喰って肥えていくだけで、どんどん清さが解らなくなっていく

だからこそ辿り着く場所がいつも同じだった時、私は〝安心〟する。

 

「他人を愛せない人が幸せになれるか」

 

世界はいつだってとても上手だ。

だから、安心や安定など願う必要など無かった。

愛をしてない人に、何かを与えたくはならないのが、きっと〝絶対〟だろう。

 

〝あぁ今日も楽しかった

また次も忘れた頃にやってきてちょうだいね「情緒くん」〟