れしをそう。

嘘。そう全部、嘘。Twitter:@nisemonoko

何かの能力が私をその気にさせるうちに。

4月後半

“後悔”を題材にした記事を何故か更新していた私は

もしかして何かを察知する事ができていたのかもしれない。

 

でもどうしてそれを“当たり前”に投げ捨ててしまったのだろうか。

きっとたぶんこれまでの人生にも幾度と沢山の“報せ”を察していたはずなのに

何も得ず、無駄にしてきたのだろうな。と思った。

 

5月17日

朝起きて、夢占いのサイトで今日見た夢を調べた。

[運気上昇]と書かれたその結果を信じる事にして1日をスタートさせた。

 

近頃、胸騒ぎがするというか、もどかしい。

ウズウズとしているというか、胸の奥で何かがフツフツとしている。

この理由を私はまた無駄にさせるわけににはいかない。と

おもむろに、求人サイトを開いた。

 

別に今の自分を否定したい訳じゃなかったけれど

「このままじゃいけない」気がした。

「自分を信じてみる」事が必要な気がした。

 

ある人を見て「羨ましいなぁ」と思ったりはしないけれど

ある人を見ては「強いなぁ」と思う事が増えた。

それがどんな小さな努力だろうが、

「前に進んでいる」が見えるようになった。

 

呆然と生きたりして、ただ漠然と死のうしていた私には

息を吐いて、靴を履いて、自分の進むべき道のゴミを掃いて進んでいく。

それが物凄く「美しく」「逞しく」見えた。

 

どうして生きているんだろう。では無い

生きている理由を知る為に生きるのだ。

きっとそれは最後にも、解らないのだろうけれど

「どれだけ知ることができたか」で、自分の人生に満足することができるのだろう。

「ああ、生きた。生きた。」と感じながら終わる事がどれほど幸せなのかと思った。

 

どうしてこんな単純な事を気づけなかったのだろう。

 

疑問だけを抱き、不満を垂れ、生まれてきた事を責め

立ち止まる事で、終わりを迎えようとしていた事の怖さが今なら解る。

近頃の胸の内から湧き出る、よくわからない謎のフツフツは

きっと、「もっと知りたい」からだろう。

立ち止まっていた時間に存在し続ける事の焦りだろう。

 

ちゃんと生きたいわけでは無い

ちゃんと死にたいだけだ。

 

親に微笑んでもらえる人生で、家族にも、友達にも私の持つ愛をすべて注ぎ込める人生で

私は私を褒めてあげられる人生にしたい。

 

ある人が言った

『一緒に』という言葉の心強さ。

ある人が指摘してくれた私の欠点

私の存在を認めてくれた。

 

一緒に乗り越えていく誰かが今日も明日も自分を愛してあげられますように。

 

気休めの夢占いの“運気上昇”の文字が私を包み込む間に

チャンスの神様の前髪を掴んで笑おう。

1日に一歩でいい。ちゃんと前に進んだ印を、刻んでいこう。

 

 

見えない物だって信じてるし、触れられない物だってココでは触れられるから