序章「さあ、不器用に生きた20代のわたしを成立させるとしよう」
わたしは不器用な20代のわたしを救いたいと思った
1年以上更新できなかったブログで、“若い”が剥がされた“ギリアラサー”が突然「過去の自分を救いたい」と言い出したら、
私だったら「ついに、狂ったのか」と思うだろう。
ついこないだ読んだ本の一文
「余裕を持ってからでは遅かった。思ったその瞬間動いておけばよかった。いつかはこない。」
これを読んだ時、わたしはとても怖くなった。
思い返せば20代のわたしは、
「まだ余裕がないし」「まだ未熟だし」「まだ準備できていないし」そんなくだらない言い訳で数々の「やりたい」を見逃し、諦めてきた。
30歳になった時、20代を捨てる時、
「もう二度と思い出したくないな」と思った。
これまでの10年間に、忸怩たる思いでいっぱいだった。
ただ、30代を1年過ごしてみて感じたことは「まだよくわからないけど、たぶん30代の方が良い」ということだった。
我ながら、これにはとても驚いた。
肉体は確実に老いを感じているのだけれど、明らかに精神面が20代より楽。
毎日色んな感情でしんどくなることなんてない。
嫌だったはずのことも「まあできるでしょう」と楽観的に容認できる。
「幸せ」と感じることが多くなった。
あげだすとキリがないので、その他は後述するとして、とにかく毎日が楽しくなったということだけ伝われば良いや。
つまり、わたしには余裕ができたのだ。
なのでわたしは“悲しみ”で溺れた20代を
わたしの大切な20代を救ってあげようと思ったのです。
わたしがやらなければ、20代のわたしは息ができなくて死んでしまう。死なせたくないと思う。
とにかく、わたしはわたしを生かしてあげたい。
ただそれだけのことだけど、みんなと“平等”になりたいと思った。
「おねえちゃん」から「おねえさん」に変わった日
美容院の勧誘、脱毛サロン・エステの勧誘、NEW OPENした居酒屋の勧誘、宗教のすすめ、道に迷った可哀想な人、物を探している可哀想な人、出会いに飢えたお兄さん、ただSEXがしたいだけの脳内精巣男
そんな人たちに街なかで話しかけられる時の第一声が「おねえちゃん」から「おねえさん」になった時、自分がちゃんと30代になったことを思い知るのだ。
ううん、現実を叩きつけられるのだ。
27歳くらいまで年齢確認をされていた私は、28歳になった瞬間に年齢確認をされなくなった。
私自身は、何も変わっていないのに、それはとても突然だった。
考えてみれば「あれ?年齢確認は?」と唖然としている28歳なんて、私は大嫌いだ。鬱陶しい。
「最近、年齢確認されなくなってさ~ちょっとショックだったんだ~」と友達に話した時、
「は?私なんて20歳からされてないけど?」と少し怒られた事があった。
確かにそうだ。
“見た目が若い”にかまけて、それを“当たり前”にしてきたことのツケが、この胸のモヤモヤとして返ってきているだけだ。
痛みだと認識しているものは、ただの勘違いだ。
本当に若くてピチピチな20歳の少年少女に「痛いばばあ」と悪口を言われても仕方ないと思う。
だけど未だに「おねえさん」と呼ばれるたびに、私の中の“若さ”が少しづつ削られていく気がして、一点を見つめボーっとしてしまう。
30歳にかける「若く見えますね」は、社交辞令だという。
30歳が問う「何歳に見えますか?」は、迷惑行為だという。
30歳が抱く「若くなりたい」は、生きづらさだと思う。
あいにく、まだ年齢を言うと「え?」と本当に驚いた表情で「信じられない」と言ってもらえる。
真実と嘘を吐く時の差は、ある程度20代に学んできたつもりで、
人間は表情だけは上手に偽れない生き物だと、私はずっと信じている。
「まだ大丈夫」というよくわからない安心感だけはある。
私達は、老いには逆らえない。
毎日「わたしなんておばさんだから」という感情で街を歩くことを20代には想像もできなかった。
次の日のことを考えて焼き肉を食べることも、
鏡を見て「今日は若く見える」とニッコリとすることも、
年齢を言う時にサバを読みたくなる感情も、高めの化粧品を買うことも、意識して野菜を多めに取ることも
全部、20代にはなかった。
人生は歳を重ねるごとに“新しい”が無くなってくものだと思っていたけれど、
実際は、30代は20代にはなかった新しい感情で満たされる日が確かに存在する。
30代の方が良いと感じているのは、
生まれ変わったみたいで、楽しいからなのかもしれない。
あたりを見渡せば、私だけ私のために生きていた
「あー今日も生きた」と、布団の中で今日を終える。
そんなある日のこと
わたしは「あ、私は私のためだけに今日を生きて、今日を終えるんだ」と思った。
「それは、とても悲しいな」と、少し泣くのであった。
人はないものねだりだから、そんなわたしの自由を贅沢だと誰かは羨ましがるだろう。
小学生から仲のいい友達は、みんな結婚した。
子供はいないが、大好きな旦那と同じ部屋で生活をして、大好きな旦那のために毎日ご飯を作っている。
それに同年代の人に出会った時は、ほとんどの確率で家族がいる。
彼らは「旦那が~」「嫁が~」「子供が~」と話し始める。
私みたいに「今日の競馬が~」とか「あのアニメが~」などといった話はしない。
コンビニよりスーパーに行く。
休日は長い商店街に行くよりも、ショッピングモールに行く。
携帯会社は大手キャリアじゃなくて、格安シムを使っているし、
まとまった休みには、ノープラン旅行なんてしないで、コストコに行く。
ふと周りを見渡すと皆は、わたしとはまるっきり違う毎日を過ごしていて、違う喜びと幸せを感じていた。
ただ誰かのために生きることを特別「羨ましい」とも思わないし、自由なわたしを「羨ましい」と思っても欲しくない。
たぶんそんな性格だからこそ、これまでも「自由」を選択して、幸せを見出してきたのだろうけれど。
何時しか、自分のためだけに今日を生きていることが、恥ずかしいと感じるようになってた。
30年も生きてきて、未だに自分だけのためにお金を使って、自分のためだけに時間をつぶし、自分のためにだけに息をして、自分のためだけに眠りにつくのが、ただシンプルに格好悪いと感じるようになってた。
そろそろわたしも、誰かのため今日を生きていかないといけないのだと突如焦り出す。
かわいい我が子の成長に涙を流して、
かわいい我が子の為に早起きをして、かわいい我が子の為に「まだ死ねない」と思う。
愛する人のために毎日台所に立って、
愛する人のためだけに、人生の最後までを真っ当する。
誰かのために生きることができたとき、人は初めて「人生」を語ることができるのかもしれない。
すると途端に、
自分の父と母が愛おしく感じる。
わたしをこの世に産み落とし、わたしのために生きてくれている両親への感謝がうまれてくる。
だけど不思議だなと感じるのは、
わたしがどれだけ愛おしいと両親のために生きることを選んだとしても、それを両親は決して望まないことだ。
両親はいつだって、我が子が誰かのために生きていくことを望んでいる。
他人と幸せになってくれることを望んでいる。
なら、親孝行とはなんなんだろう。
それはきっと「わたしがあなたのために生きていけなくなっても、安心だな」と思ってもらうことのような気がする。
誰かのために生きてきた人は、誰かのために絶対に死ねなくて、
誰かのために生きていくことを選んだ人の強さを誰よりも知っているだろうから。
うーん、自分のために生きているうちは、まだまだわたしは親不孝ものだな。
眠れない夜に少し遠回りして、拾える気付きがある。
今日は生きた。ちゃんと生きたな。と満足して、自画自賛する日だってある。
わたしがわたしのために生きてきたからこそ、大切なことに気付くことなんて沢山ある。
死にたかった夜は永遠には続かない
永遠なんてないと思っていた20代のわたしは、永遠を語る人が嫌いだった。
それが大人ならもっと嫌いだった。
汚い部分を綺麗に見せるのが大人だと思っていたし、永遠を口にする人ほど、平気で突然いなくなったりする。
わたしが覚えている一番最初の挫折は、小学生の頃だと思う。
幼稚園の頃は、いつも誰かが「さきちゃん何する?」と寄ってきてくれた。
「さきちゃんが提案することはいつも楽しい」と喜んでくれた。
だけど、お友達のお家にお邪魔した時、お友達のお母さんから嫌味を言われたりした。
「あなたのせいで、わたしの娘は悲しんでいる」と、お家から持ってきたお気に入りのおもちゃを取り上げられた。
確かに思い返せば、わたしはいつも目立っていたと思う。
先生からも好かれていたし、お遊戯会は主人公役をさせてもらっていた。
いつも笑っていたと思う。
だけどその影で、わたしのせいで意見を言えなかった子がいた。
わたしのせいで、先生に褒められなかった子がいた。
幼いながらに、その頃から1つ1つわたしの中の何かをすり潰して生きるようになっていった。
小学生になった初めての登校日、いつもわたしの後ろを付いてきては「さきちゃんがやりたいことをしよう」と言ってくれた子は誰もいなかった。
違う子の後ろで「友達は〇〇ちゃんだけ」と言っていたのを目にした時、人は簡単に嘘をつき、現実は甘くない事を知った。
そこから、どんどんわたしは自分を出せなくなった。
「あなたは何をしたいのか言いなさい」と担任の先生に問われた時、「何もしたくありません」と反抗した。
それがきっかけとなり、担任の先生から目をつけられるようになった。
母親には「さきちゃんは、全く言うことを聞かない」と、チクってもくれた。
幼稚園の頃の天真爛漫なわたしなど、もうどこにもいなくなっていて、
「いってきまーす」の声もだんだん小さくなっていった。
そんな小学1年生の2学期に、わたしは学校に行きたくないと玄関で泣くようになった。
それが、わたしの最初の挫折だったと思う。
日に日に何もかもうまくいかなくなっていった。
言いたいことが言えなくなっていった。
わたしはわたしを殺すようになっていった。
寂しいのに、寂しいと言えなくなった。
苦しいのに、悔しいのに、何も言葉にできなくなってた。
そんな1ヶ月の不登校期間中、わたしは何故か塾にだけは通っていて、
そこで出会う知らない転校生が、今の親友だ。
同じマンションから通う知らない女の子と塾で初めて話したとき、
「同じ学校のはずなのになぜ知らないんだろうね」と、笑い合ったシーンを鮮明に覚えている。
彼女は、わたしが学校に行っていない間に同じクラスに転校してきた子だったので、お互い知るはずもなかった。
初めての出会いが大嫌いな学校じゃなかったから、逆に良かったのかもしれない。
すれ違いが生んだ、運命のような良い出会いがそこに存在した。
と、そんなよくわからない転校生のおかげで、わたしはまた学校へ行くことができたのであった。
それからは毎日2人で同じマンションまで下校し、
放課後は一緒に塾に行った。
寄り道をして沢山笑った。
おばあちゃんに、わたしの1番の友達だと紹介したりもした。
そんなわたしの不登校生活は、たった1ヶ月間だけだったけれど、
今になって思うのは、
「あの時、不登校になっていなかったら彼女と仲良くなることはなかったのではないか・・・」といういことである。
考えるだけでも身体が震える。
一見、後悔のように見えるけれど、
実は意味がある出来事が人生には沢山あるように思う。
悲しみや苦しみがあるからこそ、見えるもの。
出会える人。手にできる感情。気付き。
転校生の彼女とは今もずっと親友ではあるけれど、
小学生の仲良かった期間は、小学1年生の半年間だけだ。
それもまた不思議。
「なんでまた仲良くなったの?」「どうして今も親友なの?」と、疑問に感じるかもしれないけれど、それはまた後ほど。
ただ、彼女はこの小学生の頃の記憶をあまり覚えていないらしく、
その後に起こる数々の試練(親友になった真実のきっかけ)の記憶だけで「わたしに救われた」と言う。
それよりも先にわたしの方が彼女に救われていることを、わたしだけはちゃんと覚えている。
「転校生の彼女のおかげて不登校生活を脱出できたこと」をわたしは一生忘れないし、
「永遠なんてものは無いが、真実はある」を教えてくれたことも、決して忘れないだろう。
20代の死にたかった夜のことをわたしはすべて覚えているけれど、
いつもわたしを信じ続けてくれた人がいたことも、ちゃんと忘れないでいる。
「あなたは死なない」と言ってくれた
「あなたを死なせない」と言ってくれた
いつもわたしの手を握って、生かし続けてくれた人。
死にたい夜は、永遠には続かない。
いつか今日のように
死にたくなる夜より、死にたくない夜の方が多くなる。
死ぬことが怖くて、生きることに一生懸命になる。
仮に永遠のようなものがあるとするならば、
永遠の苦しみなど、永遠の愛でねじ伏せることができる。
20代のわたしよ、よく聞け。
すべてに幻滅しても、何かを愛することだけ辞めなければいい。
それだけで必ず救われる。それだけで必ず生きていけるよ。