れしをそう。

嘘。そう全部、嘘。Twitter:@nisemonoko

大切なもの。

「大切な事ってなんだったっけ」

そう迷った日が昨日だった。

 

その日は“大切”という言葉に異様に違和感を抱いた。

 

『これは言うべきでないな』

何度このセリフで、言葉を書き換えてきたのだろうか。

何度吐く言葉の中に、真実を隠してきたか。気付かれまいと改竄してきたか。

それはそれは数え切れない程で、

いつしかそれが身体に染み付いて、こびりついて、支配して、迷わしてた。

 

『これは言うべきでないな』

という状況や、環境を作ったのは自分だし

これはすべて自分自身のせいなのだけれど

足掻きたい。鬱陶しい。嫌悪を感じていたい。と、そう思った。

 

そうだ

現実と非現実の話をしよう。

 

私は特にその2つに壁は設けずやってきたつもり。

それは境界線を引く事でどちらかの自分を否定しているようでダサいから。

嘘を付くのも、見繕うのも、美しく振る舞おうとするのだって

どちらでの自分は自分だし、現実でも非現実であっても、全く同じ。

だから非現実での私を好きだなんて思った事は一度もない。それはもちろん現実でもそうなのだけれど。

ただ、その2つには確実に違うところはある。

その違いを認識し、受け止めていくことの方が大切だと私は思っている。

 

たまに「リアルを蔑ろにしてしまった」とボヤいている人を見かけるが

その次に続くのが「ネットのせいだ」という言葉なら

私は、その人と自分の間に線を引くだろう。境界線を引くだろう。

 

「リアルでは僕を出せない。そんなリアルが憎いから、ネットでの僕が僕だし、ここにずっといたい」と言う人とも

「リアル充実」という言葉も「ネット住民」という言葉も全部嫌いだ。

無駄に現実と非現実に境界線を設け、どちらかを消滅させようとして、誰かのせいや、何かのせいにしてる人が私は嫌いだ。

 

 

ただ、現実世界でしか得られない幸福や、感情、感覚、知恵。

非現実世界でしか得られないものもある。

承認欲求や、自己顕示欲、自己主張したり、逃避できる事、もちろん数多くの知識を得る事だってできる。

このようにどちらにもポジティブな部分は沢山あって、すべてを貪欲に得ようとする事は大切だと思う。

だからこそネガティブな部分も含めて、上手くできるはずなのに

どちらも愛せていないやつが、何かを諭そうとする。否定しようとするから嫌いなのだ。

 

境界線を引けば引くだけ、頑なで偏屈な人間になってしまう気がする。

 

自分を上手に操ったり、振る舞ったりする事は大切だけど

現実や非現実のどちらかで問題があるならそこを攻めるべきだと思う。

非現実での自分でしか言えないセリフがあるとするならば、そこを睨みつけろ。と思う。

自分はどうしてそうなのか。と自身を恨めと思う。

そうして、現実と非現実のどちらも愛していけた時、初めて満足しろ。と思う。

 

これは、自分自身にも言える事だから

今、この文章を書いていて胸がチクチクと痛む。

現実と非現実を行き来し続ける限り、これは永遠の課題だ。

 

非現実世界で何かを満たしている間に失われたものが沢山あった。

 

「大切なもの」を取り違えた。

「大切なもの」で「本当の大切なもの」を埋まらせてしまっていた。

 

本当に守るべきものは何なのか。を見失ってしまった。

 

非現実世界で出会った数多くの人から貰ったものは沢山ある。

だが、拗れていく事もそこには沢山あって

多くを語る必要が無い。と思ってしまうのは、そこには距離があるから

勘違いを招いてしまう事もあるからで

恨まれる事や、憎まれる事、妬まれる事もある。

 

でもそれは距離のある非現実世界では仕方ない事なのに

私は上手にできる。と自身を過大評価していた。

私が私を勘違いしていた。

 

「私が何かを言えば、皆を迷わしてしまうのではないか」

「責任感」

こんなのは必要なかった。

非現実での限界はある。

 

私は誰かの為にネットをやっている訳でも無い。

なのにいつからか「大切なもの」として、無駄なものを守り続けていたのだ。

 

託さないでくれ、促さないでくれ、求めないでくれ

私は出来た人間じゃない。

嫌なものは嫌だし、自由が好きだ。自由にやりたい。

 

自分と合わない人の事だって、この手で何度も終わらせてきたし

これからもそのつもりだ。

もう非現実の良いところを自ら押さえ込むのは辞めようと思う。

 

「本当に大切なもの」を守っていきたい。

ここではもっと正直に生きていきたい。

 

大切な距離を保って、何かを得ていたい。みんなとは笑っていたい。

 

もっとここでの自由を取り戻したい。

 

時刻、私、普通。体温、私、普通。

午前9:30

体温、36度1分

外の気温、7度

体調、ぼちぼち

 

頭を振ったら、ドカンと1発痛みが走ったので

「熱だ」と思い込んだ。

当たり前のようにして、体温計に手を伸ばし脇に挟んだ。

 

体温を測る間、いつも何をしたらいいのか解らなくなる。

なんとなく「風邪だしなぁ」と呟いてみたけど

私は私が怖い。

 

まだ確定もしていないのに、熱があると思い込んでいるうえに、風邪だと断定している。

図々しくも、他の可能性を考えようとしない、理解不能な今の私が私は怖い。

 

ピピピピピピ

 

「36度1分」

ふーん。体温計を机に投げつけて、お布団に潜り込んだ。

「風邪だし…な」

うまく言えなかった。語尾がゴニョゴニョってなった。

 

午前9:45

カレンダーを見て、1月の残りの日数を指で押してみた。

30、31...

 

スイッチは見当たらなかった。

赤く記載されている、今日の日付を見て

心は青くなった。

 

「日曜日か」

本日、第1回目のため息をついた。

 

午前10:00

【理想の家づくり】と、特集が組まれている雑誌を読む。

美しすぎて、羨ましすぎて、虚しくなる。

 

どこか遠くへ行きたくなる。

 

 

「風邪かな」

さっき計ったばかりのはずだけど、狂ったのかと思う。

もう一度、体温計を脇に挟んで

「風邪だしなあ」と、また口に出してみた。

 

体温を測ってる間は、なにをすればいいんだろ。

「風邪だったらどうするか」を考えてみよう。

 

〇お布団に籠る。(風邪じゃないけど)

〇Aquarius飲む。(風邪じゃないけど)

〇病院行く。インフルエンザ検査される。薬もらう。(違うんだけど)

〇とりあえず寝て、熱が引くのを待つ。(熱なんてないんだけど)

 

()の中がすごく邪魔してきて、真剣に考えることができない。

 

 

ピピピピピピ

 

35度9分

 

なんだ、下がってるじゃないかよ。

熱だと思って測ってるのに、さっきより下がってる。絶望的。

もう3年くらい、体温計なんて使ってやらない。絶交だ。

 

 

本日2度目のため息は、夕方くらいまで残しておこう。

 

 

そんな感じで風邪じゃないので、

今日は写真を撮りにいきたい。

久しぶりに写真に納めたい。

思い出を納めるのじゃなくて、私は今を納めたい。

それがいつか思い出になる。なんて知らない。

今のこのモヤモヤとした気持ちを納めて残しておきたい。

 

 

頭を降ってみたら、やっぱり痛かったけど

なんか今日は…

 

 

ピピピピピピ

 

アラームが鳴った。

そろそろお布団から出る時間だ。

 

なんだか、音に知らせてもらってばっかだな。

音に操られてる人間ゴッコでもして過ごそうかな。

 

 

午前10:30

天気、晴れ

お腹、空いた

私、なんだか幸せ。

 

 

 

 

FAKE。

瞳には映らない誰かの姿

創造した幻想、心地よい錯覚

いくら虚像で孤独を埋めてみても

そこはマヤカシ。ニセモノだ。

 

親指で繰る、恋愛モドキ

幾度と交わしたはずの言葉はレプリカ

涙を零しても、濡れるだけで

怒っても、恋焦がれても、笑っても

渇かないんだ、ずっと渇かないんだろ

 

そう、そこはマヤカシ

一瞬で終わらせることだってできるさ

思っているよりも空っぽでイカサマな嘘で塗れてる

信じて、失って、置き忘れてるくらいなら

疑って、掴まえろ、そして最後には逃げるくらいのズルさを身につけろ。

それはマヤカシ。

 

いつか

君の優しい愛も欠落して、無になるのなら

迷って、探して、睨み続けていけ

そしてその場所が、どれほど虚無な世界かを知り

そして、微笑め。勝ち誇れ。

 

マヤカシに預けた時間、体温、心

そして残った作為的な記憶。

すべてを愛せるか。

 

瞳に映った誰かの姿。

想像した現実、心地よい確実

孤独を埋めるように、そこにある明確に身を委ねていく。

記憶を失うように、身を焦がしていく。

零した涙も乾いていく。これがホンモノだ。

マヤカシでもマボロシでもないホンモノだ。

 

マヤカシを殺した、シルシ

アヤカシだとゴマカシたアカシ。

 キミタチのハナシ。

安易を使いこなせ。

制限は、たった140文字。

そこでどうやって自分を表現してきたのだろう。

安易。

 

既読。

そのマークをいつから当たり前に受け止め、切なくなっていたのだろう。

安易。

 

 

空っぽさ、未熟さ、浅薄さ

安易な中に潜む、不信感、嫌悪感。

突如襲いかかる、破壊衝動。

 

もっと確かめ合える手段は沢山あるはずで

もっと伝える方法は沢山あるはず

なのに

どうしてもっと、貪欲になれないんだろう。知ろうとできないんだろう。

流されていくのだろう。

 

だからといって

順応性の無い人にはなりたくない。

知らない大人にはなりたくない。

ちゃんと熟していたい。覚えていきたい。

 

大切なのは、安易さに身を委ねすぎないことで

安易さに甘える自分に怒りを覚えることで

安易さの中でも抱き続けることだ。

 

誰かの真似をして喜ぶ大人。

安易さに身を委ね、我を見返らない、協調性に欠けた大人。

人から貰った大切な言葉たちを粗末にする大人。

信じすぎる大人。

 

このような

安易さという、ぬるま湯に浸かり、ドシンと構え動こうとしない大人にだけはなりたくない。

きちんとそれらを睨みつけていたい。

 

幻想的だともいえる、美しいものの裏側を私は睨んでいたい。

 

決してそのものは与えてない。

勝手に与えられたように思い込んでいるだけだ。

 

私の日常に散らばった安易たちを上手に使いこなせる人に私はなりたいと思うのであった。

その色はオレンジ。

ある日を境に

見てる世界が、まるでリニューアルされたようだった。

その色はオレンジ。

何か大きな理由があった訳じゃないが

私はその日から毎日、今日見た夢の話をして、現実を始める。

 

夢と現実を行き来して、

人間らしく。を必要以上に意識して過ごす。

 

朝昼晩のご飯の時間

お風呂は湯船にしっかり浸かること

朝は早く起きて、夜は早く寝ること

朝にこのブログを更新して、自分と向き合ってから1日を始めること。

 

1日を過ごす中で、フワッと訪れてきやがる

恐怖とか、不安には

目をつぶって向き合うようにした。

「わたしはいきてます。」

と、認めるようにした。

 

私の生活が、誰かの生活と交わる時が来たら

ちゃんと順応できますように。

幸せをちゃんと感じれるようになりますように。と

 

 

あの日、積み木が崩れてしまってから

私はずっと、散らばった積み木たちと過ごしてた。

崩れてしまった事を

見ないように。見ないように。と目を背けてきた。逃げてきた。

絶望を知るのが怖かった。涙を流すのが億劫だった。

現実とぶつかる事に疲れてしまった。

 

でもそれは長くは続かなくて

積み重ねてきたものは、その場に散らばったものは

ある日突然襲いかかってくる。そんなのに前触れなんて無い。

「あれ?何かが足りない」

と、積み重ねないといけなかったモノの存在に気付く。

 

大切な何かを忘れていたのだ。と気付く。

失っていたのだ。と気付く。

 

それが本当の恐怖だった。

 

あの日、崩れてしまった状態のままのモノを

一つ一つ埃をはらいながら、掘り起こし、思い出していく作業は

思っていた以上に、逃げる事以上に辛かった。

心を削ぎ取っていくような、自分の身を自分で刺し続けるような

何とも言えない虚しさと、悲壮感に包まれた。

 

でもそれが、“人間らしく”だった。

 

外に出る前に、スイッチを入れ替える。

人と会う前に、スイッチを入れ替える。

腐敗し、無の私を必死に隠し続けた。

私はしばらく“人間”を演じ続けてた。

 

悲しいね。

と、私は私に言いたい。

 

 

こうやって自分を切り刻む姿を誰かに見てもらうことに

私は何の快楽も得られていない。

むしろ苦痛だ。みすぼらしい。

 

でも、必死なのだ。

 

見える世界がリニューアルされたあの日から

何かが変わっていて、その何かを見つけたくて必死なのだ。

 

今だって私は私の為に、この文章を殴り書いているつもりだが

でもほんの少しだけ、

もしも明日死んだら。という事も考えてて

誰かに伝われば。とも思っていて

いつかこの綴っていく文章が、ダウナーじゃなくなったなら

人間になれたのだ。と思ってほしいなって願っていて

でも、どこかで

それはつまらないな。と感じて欲しい。

 

本当は、“欲しい”が溢れてる。

 

まあ、たとえ、私が私を取り戻したとしても

黒い何かを育て続けて生きていくのだろう。味方にしていくのだろう。

 

いつか誰かが私に抱いてくれた興味が欲しい。

もっと認められたい。

 

その日まで、私は今日の夢を語り、現実を生きる。

“人間らしく”生きて、

取り戻しに、生きる。藻掻き、生きる。

 

そう、その色は、オレンジ。綺麗なオレンジだ。

 

 

恵方巻きについて考える朝。

「恵方巻き」の画像検索結果

こんな恵方巻きを食べてしまったら、来年から何を食べるのだろう。

最後の晩餐クラスの高級食材を詰め込んで、クルッと巻いてしまったら

その一年は何を食べて過ごしていくべきなんだろう。

 

恵方巻き」と検索した事を酷く後悔した朝

私は、今年の恵方巻きについてを考えていた。

 

恵方巻きの中に入れたいもの・・・

何をクルッと巻いて私は喰らいつきたいか・・・

 

うーんそうだな

 

勇気、希望、欲望、幸せ、愛、忍耐、強さ、多少の事で砕けないメンタル、超える力

これを、2017年の方角

北北西やや北

に向かって喰らいつきたいかな。

 

願いごとは、そうだね

「コレすべて必ずください。私がコレを食べ終わった瞬間からです。ええ全部です。」

と、心で願いながら最後まで黙って食したいかな。

 

そうするとたぶん私、2017年には最強になれるのでしょうね。

それも、恵方巻きのお陰で。

 

あーあ

くだらない。すごく。しょーもない。

 

 

冗談はここまでにして

多分、今年の私の節分はスーパーの少し高いくらいの恵方巻きで過ごすのだと思う。

でもそこには、ただ一つだけ信念があって

スーパー玉出のだけは許さない」

これだから、それ以外なら何でもいいかな。

なんだって良いや、別にこだわり無い。

 

 

そして、次にやってくるのはバレンタイン。

 

バレンタイン=チョコレートという概念がそろそろ鬱陶しくならないものかね。

なんでもいいじゃないか

 

“好きな人に思いを伝える日” “愛の誓いの日“

このようなトラディションはすごく素敵だから、どうぞ続けていってもらいたいのだけれど

チョコレートに固執している国民が多すぎるのか、

バレンタインシーズンはどこのお店行ってもチョコレートが山積みになっているか

手造りキットや、ラッピング系がお店の殆どを占領してくれてる。鬱陶しい。

それを見るたびに

「チョコレートじゃないといけない!みたいな空気出すなよな・・」

と、歯向かいたくなるものです。

私はほんとに捻くれている。と、自負をちゃんとしてます。

 

なので、バレンタインに恵方巻きをプレゼントするのも良いんじゃないか。

とかを考えてみたけれど

それなら普通にモツ鍋が食べたいだろうし、ローストビーフが食べたいだろうな。

 

じゃあ、節分には恵方巻きを食べるとして

バレンタインにも恵方巻きを食べて

クリスマスにも恵方巻き食べて

今年のどのイベントでも

北北西やや北

の方角を向いて恵方巻き食べたら、いっぱい願い叶えてもらえるチャンスありそうじゃないか。

 

そもそも、北北西やや北ってどこだよ

いつも思うけど、細すぎ!!

 

それに、誰が願いを叶えてくれるの?

鬼?神様?誰?

恵方とは、その年の福徳を司る歳徳神(としとくじん。年神様の別称)のいる方角で、その方角に向かって事を行えば何事も吉とされています

としとくじん。。。だれ?

まあ、そのとしくんが叶えてくれるんだね。わかった。

 

つまり、ココにも記載されているように

その方角に向かって事を行えば何事も吉

だということだから

節分の日だけに限らずという訳ですよね

 

なら、さっきのどのイベントの時でも恵方巻きを喰らうというのは、良い発想じゃないか!

あっぱれ!

 

まあ、絶対的なのは

さあこはクリスマスにはケーキとチキンを食べるし

バレンタインにはチョコレートや、クッキーを食べると思うし

エープリルフールには嘘を付くし

ハロウィンには、みんなにお菓子頂戴!ってクレクレおばさんするつもり。

 

何があっても、恵方巻きは節分にしか食べないかな。

しかも方角にも向かないかもしれないし、黙っても食べないかもしれないな。

 

好きにやらせてもらうかな。

 

こんな事言っちゃえば、元も子もないのだけれど、

こうして無駄に色々と考えて

また元の位置に戻ってくるのが私は大好きなのだ。

 

とても良い時間を過ごした。

 

今日のブログは、ご覧の通り

どうしようもない程くだらない内容だったけれど、

みんなも恵方巻きについて一度考えてみればいい。

そしてみんなにとっての「いつも通り」の節分を過ごしてください。

 

そして、節分の日には必ず

私の鬼を退治しにきてください。待ってます。