れしをそう。

嘘。そう全部、嘘。Twitter:@nisemonoko

2017年どうか、笑顔で。

 

2017年、気付いたら今年も残すところ2日になってしまっていました。

ただ、こんなもんは毎年の事です、経験済み。

残されたこの2日なんてほんと一瞬で、息を吐いた次の瞬間に年は明けちゃってるんだよね。知ってるよ。

 

なので今年はきちんと、ここで皆様にご挨拶させてください。滑り込みセーフです。

 

 

そういや、はてなブログをスタートさせたのも2017年でした。

 

最初の投稿は、2017.1.19

私がココを始めた理由は、〝色を取り戻すため〟だった。

 

その頃の私の世界には、音も色も何も無くて

感情が思い出せないって、毎日毎日泣いていたと思う。人間に戻りたくて必死だった。

私の中に眠る僅かな欲望を目覚めさせようと、必死だった。

文字におこすと何か変わるかもしれないと、とにかく必死だった。

 

そして書き続けていくこと

 

2017.1.27

私はその日「その色はオレンジ。」という記事をあげた。

この日、昨日まで奪われていたはずの色を全部取り戻した。忘れもしない、とても不思議な日だった。

 

2017.4.24「また来る季節に、誓いのキスを。」

これから訪れる何かを察していたのが解る記事。

この頃、何かを恐れ、何かを必死に守ろうとしてたのを覚えてる。

 

そして、これが2017年最大の魔物。

たぶん一生忘れる事のない出来事。

 

2017.5.16「親が与えてくれる偉大なる愛を抱きながら」

4月28日母が緊急入院

退院するまでの2ヶ月間、ほぼ毎日不安と恐怖と後悔と共に泣きじゃくった。

「命」を必死に守ろうと、私はいくつもの「生」を手に入れた。

 

それから次々に訪れる様々なモノに何度も何度も押し潰され、取り戻して、でもまた失い。を繰り返しながら生きた。

そうして私は本当に大切なものに気付き、手に入れる事ができたのだった。

 

 

そう、これが私にとって、やっと大きく変われるきっかけになった出来事。2017年が私に託した試練だったのかもしれない。

 

 

そして

2017.9.24「あきれちゃった。」

文字を書けなくなった日。

 

2017.10.9「涙味のコーヒー。」

耐えながら越えようとしていたものを、まずひとつ取り上げられた日。

 

2017.12.3「2017年、よく聞け。私は君を許さないぞ。」

少しづつだけど、手に入れ始めた日。

 

 

こんな感じの2017年

すべてでは無いけど、私が生きた証がちゃんとココに記されていた。

 

忘れられない、忘れたくない2017年

やっと鬱から抜け出せたかと思ったら、急に当たり前を取り上げられて、自分の過去との戦争が始まる。

いくつもの壁を壊したり、越えたりしながら〝生きる〟を刻み込んだ。

そして、長年手に入れられなかった欲しかったモノが手に入った時、やっと〝幸せ〟がどんな感触だったかを思い出した。

 

2017.12.29

私はとても活力に溢れている。

当たり前も、幸せも、知る必要があった。刻む必要があった。

私は、来年も再来年もずっと生きたい。

何度死んだとしても、何度だって生きたいよ。

まだまだ取り戻したい事があるし、返したいものがあるから。

 

皆が幸せになれるように。

私がやらなくちゃならないこと沢山あるんだよ。

 

 

今年は皆さんにほんとに助けられた1年だった。

感謝してもしきれないくらい、愛を沢山頂いたと思う。

来年もどうか、こんな私をよろしくおねがいします。

 

まだ消えないで、そこにいてください。

2018年は与えられるより、与える1年にしたいです。

 

皆さんとは、来年までしばしお別れを。

2017年さん、あなたはどうか笑顔でお眠りください。

 

 

良いお年を。

 

 

 

情緒くんさよなら、さよなら情緒くん

初めて〝安定〟とか〝安心〟が欲しくなった時、やっとたどり着く

「安心して安定の中に居る人はこの世に存在するのだろうか」

すると私は自分の強欲さ、烏滸がましさ、醜さを知る。

 

自分の事だけを考えていると

「取り残されたようだ」と、まるで〝不幸〟が自分にだけ微笑んでくれているように感じる。

なんだ、これも烏滸がましすぎて寒気がするじゃないか。

 

であれば

「他人の事なんて考えてる余裕ない」が、どれ程に自分を〝不幸〟へ追いやっているのかを知る。

 

この世に〝絶対〟など存在しない事を知ってるつもりだけど

何度だって探してしまうのが、欲深さだよ。

 

まるでそれは、宝くじを買うような感じ。

「買わなきゃ当たる事も無いじゃないか」

「信じなきゃ叶うものも叶わないじゃないか」

目には見えない神様を信じるような、欲深さ。

 

ないものねだりを繰り返す内に

自分には何があって、何が無いのかを忘れた。

あんなに〝孤独〟を愛していたはずなのに

「あなたとずっと一緒にいたいよ」と、雌の顔をして吐く時の烏滸がましさを、咎められるべきだと思う。

 

ならどうして私は、〝安心〟と〝安定〟を求めだし始めたのだろうか

 

他人の〝安定〟を見たから?他人の〝安心感〟を羨ましいと思ったから?

違う。どちらも違う。

 

そう私は〝安定〟を求める自分に〝安心〟したかったからだ。

いっさい周りなんて見てやいない

私は私しか見ていなかった。

「あなたとずっと一緒にいたい」と吐くあの瞬間だって

私は私しか見てないんだった。

 

 

そう

自分を〝不幸〟に追いやっているだけだった。

 

 

 

兎にも角にも、この世は上手くできている。

何年か前の苦労や悲しみを、今日には「あの日があったから」なんてシャラシャラと奏でたりするのだから。

大切なことに気付くのはいつも後で、その瞬間の対処など大人になればなるだけ、できそうになくなった。

目の前の欲しい物に手を伸ばしてる時の方がよっぽど、〝大切〟を落とさないで済んだろうに。

 

どんどん醜さを喰って肥えていくだけで、どんどん清さが解らなくなっていく

だからこそ辿り着く場所がいつも同じだった時、私は〝安心〟する。

 

「他人を愛せない人が幸せになれるか」

 

世界はいつだってとても上手だ。

だから、安心や安定など願う必要など無かった。

愛をしてない人に、何かを与えたくはならないのが、きっと〝絶対〟だろう。

 

〝あぁ今日も楽しかった

また次も忘れた頃にやってきてちょうだいね「情緒くん」〟

 

NONSTOP期待

〝期待〟には、いったいどれだけの力があるのだろう。

試練を超えるほどの強さを与えてくれるものなのか、それとも、プレッシャーという弱さを与えてくれるものなのか。

 

28年間向けられ続けた〝期待〟に、私はまだ何一つ答えられずにいるけれど

色んな汚いもので散らかった道を、汚れないように避けながら歩いているだけだけだけれども。

 

だけど、ずっとこのままではいかないということは重々に理解していて、

いつか私に向けられた様々な〝期待〟という巨大なボスと戦うべき日はくる。の承知の元で〝期待〟を避けながら日々を生きている。

 

いつか誰かが

悟りを開いたお坊さんみたいな面をして私にこう言った

「越えられられない壁なんてないんだよ」

何年も何年も、私はそれが腑に落ちなかった。

 

それを認めた時、越えられない壁の手前で「もうむり。越えられない」と、果ててしまった人達の苦悩や悲しみはどうなるんだ。報われないじゃないか。

「幸福は皆平等」

この言葉並に信ぴょう性が無くて、無責任な言葉だな。

と、モヤモヤしながら私は生きてきた。

 

だけど生きていると色んな人と出会う。

いい意味で私の中の何かを刺激し、揺らがしてくれた。

 

色んな越えられない壁を色んな方法で乗り越え、それぞれの正解を見つけだして、強く生きていたりする人達にいちいち私は、〝期待〟してきた。

 

「越えられないだろう壁だったけれど私は諦めなかったよ」

と、言った人は「越えられない壁」を目の前にした時、今の自分には、その壁を何をしても越える事ができないだろう。と、自分の弱さを認めたんだと。

そしてその後、彼は諦める事をせずに、一つ前のマップに戻っては、必死に経験値上げに励んだ。

そうやってある程度のレベル上げをして、またその壁に挑みに行ったんだと。強い。

 

そうして、その人の「越えられない壁」は、「越えられた壁」になったと。

 

 

越えられない壁をどう捉え、どう越えようとしたのか。どの角度からその壁を見たのか。

それによって、得るものが変わっていくのだという事を、私はその人から教わった。

 

 

要は「越えられない壁なんてない」 は嘘で、今の自分には越えられない壁。は存在する。

 

肝心なのは、その壁を

越えようとするのか、諦めてしまうのか。

そこが重要なのだと、私なりの理解をした。

 

越えられない壁の前で、果ててしまった人は、〝諦めた〟からだ。越えられない壁だったからじゃない。

 

越えられない壁の前で、今の自分の能力を客観的に捉え、その壁を越える力を得るため努力した人は、

〝諦めず越えようとした〟だから、越えられる壁になった。

 

そうか、やっと解ったぞ。

 つまり、正解は

「越えられない壁はある」けれど「越えられない壁でも乗り越える事はできる」だ。

 

話はだいぶ逸れてしまったけれど

 

現時点で様々な〝期待〟に答えられていない私が、いつかそのすべての〝期待〟に答えられる日が来るとすれば、

越えられない壁を乗り越える為の試練をただ身を潜めながら耐えてる今の自分を、全力で肯定してあげる事ができる。抱きしめてあげられる。という事だ。

 

私は私の為に、この答えを導き出すことに成功したという事だ。

 

あの日「越えられない壁はないよ」の言葉に漠然と抱いたモヤモヤを成仏させてあげる事ができた。という我への朗報。

 

私は答えがないものがずっと好きだった。

それは、そこに自分なりの答えを注ぎ込む事ができるからだと思う。

これからも、くだらない何かと張り合って生きるつもりはない。ずっと、我が道を行く。でいい。

 

そんなふうに、私はずっとこうやって人生をやり過ごしていくんだろつ。

道端に落ちてるゴミにいちいち感情を委ねて、自身を疲れさせて生きていくんだろう。

 ひとつひとつの事に気を取られながら、自分なりに納得できる正解を見つけ出し、〝簡単〟を偽装して、ゴキゲンナナメに生きてくんだろう。

上等じゃないか。立派だ。

 

 

私の人生の答えは私が見つける。

私の前の〝越えられない壁〟という〝期待〟は、ある日〝乗り越えずにきた壁〟になり、〝乗り越えないといけない壁〟になって

〝簡単に越えられた壁〟にさせてみせる。

 

その為に、私は「人として褒められる自分」を創る事に集中しなければならない。

 

「あの人には何も無いけど、人としては立派」を目指す。

 

だから君たちは、また私に〝期待〟しててくれていい。そんなの喰い滅ぼしてやるから、〝期待〟を与え続けていてほしい。

2017年、よく聞け。私は君を許さないぞ。

文章と向き合うとなると、私は長い時間を掛けてしまい、思っている以上に体力を消耗してしまう事になる。

よって、文章を書く。といった体制に入るに至るまでに諦めてしまう。いちいち意気込む、それが辛かった。

 

けれども、ついに仕事に置いて、この厄介な癖が大きな問題になってきた。どうしようもなくなった。やらないといけなくなった。

 

文章を組み立てるのに長い時間をかけすぎてしまうこの癖が足で纏いになり、作業が上手く進んでいかない。自分に自信がなくなる。それが現在最大の難点。

なので、“文章をできるだけ早く書く”という課題を我に設ける事にしてみた。

それを決めたのは、今日。いや、さっき。

 

そしてそこに辿り着くまでの改善点を考えてみた所で

やっと、ここに辿り着いた訳だ。久しぶりだな、はてなブログ

 

そうだな、まずはプライベートの文章くらいサクッと書けるようになる…という希望と願望を糧にして、やっと久しぶりに“書こう”という体制に入ることができたまでは◎を上げてもいい。我ながら思い立ったら即行動がよく出来た。あっぱれ。

 

でも次にぶち当たった壁「何を書けばいいんだ」に、負けそうになる。ペンを置きたくなる。(手書きじゃないんだけど)

 

でもここでやめたら、意味がない…歯を食いしばれ…まだいける

 

自分自身にエールを送ってみよう

 

“そもそも綺麗な文章なんて、書けっこないんだから、そこまで拘る必要もないぜ!誰も見てないブログなんてサクッと書いてしまえよ!”と、我に妥協を促すエール。

もう、ここまできたら任務だ。やれ。

 

多少の不安も…たどり着けるのかな…のハラハラ感も全部楽しむべきだ。不安と共に闘う覚悟。

さもなければ、そもそもの問題なんて何も解決しない。任務だ。やれ。

(実際、こんな重く捉えてはいないが)

 

 

さて、何を伝えるのか。

私は今、“誰か”に何を伝えたいのかを絞り出すんだ

 

 

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 近頃は、新しい職場に慣れるために目を閉じながら匂いを嗅ぎ分けるような日々で(よくわからないけど)

とにかく生きるのに必死だ。

自分の職場さえアウェイなので、それを一刻も早くホームにしてかなければ、デスクに座っている自分が恥ずかしくて恥ずかしくて限界だ。やってられない!

そんな感じで、慣れる為に、自分が努力できる事を探してる最中である。がんばれ!自分!

 

次に、大きく変わった事といえば

毎日“誰か”の生活を把握する事で、“孤独”を満たせているところ。

 

20代、自分のこれまでの人生を巻物にしたとするならば、ガラクタ譲渡で有名なメルカリでさえ値が付かない程、糞みたいな年表にしかならないだろう。

 

そんな事実を自覚しながらも「わたし、大丈夫なのか…?」と怯えながら、これまでひっそり生きてきたのだけれど

ここに来て、すごい速度で一気に色んな事が舞い込んできたので、感情も肉体も精神も結構追いついていない。

つまり、私は私の人生で忙しくなっている。といった感じ。

このままだと柄にも無く、“幸せ”というワードを使い慣らしてしまいそうで、むず痒い。

でもきっとこれは多分、幸せユーザーからすれば「それがどうした?」と馬鹿にされるようなちっぽけな内容なのだと思う。

が、そんな事にすら私は「あ、これ幸せだよね?壊れてしまわないか心配だよォ」と、抱きしめたりしちゃってる系、自己満って感じなので、聞き流してくれてもいい。

 

でも、私なりの“幸せ”を皆に伝えたい欲求が抑えられないので、少しだけ聞いて。

 

例えば、君たちがずっと手に入れたくても、入れられなかった薬草があるとよう。

それがある日、ショーモナイ雑草と共にすぐそこの道端に生えていたとしたら「え?」となるでしょう?「これほんとにアノ薬草?」と疑ってしまうでしょう?

あんなに手に入れたくて仕方なかった薬草が、こんなにも簡単に手に入れられるなんて有り得ない。

なんて疑いながら調べて調べて調べまくってみても

やっぱりそれは、今まで入手できなかったアノ薬草で

次は怖くなって

「きっとこれは、夢だ。それか幻想だ。」とか言って、信じるまでには、それなりの時間がかかってしまうでしょう?

 

と、まあ、そんな感じ

 

ずっと手に入れたかったはずの薬草をやっと入手できたのだけど

それを何に使うのか、何に使いたかったのかが解らなくなってしまってて

今は思い出すまでは、大切にココに保管している。って感じ。

 

「いつか、これ誰かに盗まれたりして」とか「お金で買い取ろうとしてくる悪い人が、明日インタホーン鳴らすんだ」なんて悪い妄想に怯えながら、毎晩その薬草を眺めてニヤニヤして、いちいち鍵付きの箱にその薬草を入れて守ってるって感じ(よくわからないけど)

 

つまり、アノ薬草手に入ったよ!って話。伝われ。

 

あとは、歌う事もできるようになったよ!って話。どうでもいいけど

 

ただ、やっぱり環境って本当に大切だなって最近よく感じる。

すべて意味がないように見えて、どれも意味があるんだな。って

あとになって、過去と現在に線を引いて納得する事が良くあるから、もう確信してもいいと思ってきた。

 

だとすれば、意味がないように見えてた、あの糞みたいな私の巻物も、私にとっては宝物なんだ。

値は付かなくとも、私にとっては意味のある価値のあるモノだという事だ。

 

そういえば、去年の今頃、「光の無い世界」に苦しんでいたのだと思えば

よくここまで生きれた。と褒めてあげたい。

 

文章を書く事さえ、困難になって

音楽を耳に流し込むと、吐きたくなって

そんなの歌う事なんてできる訳なくて

「私、このまま何もできないまま、死んでいくんだな」って“孤独”をプスプス指しているような日々は

本気で怖かったし、本気で終わったと思った。

よくここまで耐えた。

 

とは言っても、問題がすべて解決した訳じゃない

今だって沢山の問題と、沢山の課題と共に生きていくのには変わりはない。

過去のトラウマのような魔物に食い殺されそうになって怯えながら越える夜だってまだある。

 

だけど、毎日の世界にはちゃんと光があって

音楽を耳に流し込みながら、身体を動かして、金を稼ぎにいけている。

薬も必要ないくらいに、夜になれば眠たくなる。

口に入れる食材の色に「幸せ」と泣き、一つ一つの味を噛み締められている。

家に帰れば、家族がいる。

音楽に身体を揺らして、笑いながら声を乗せて「楽しい」と思えている。

仲間がいて、その仲間に会いたいと思えている。

 

何よりも、未来を見れている。

これ以上に欲しいものなんてない。

どんな問題があろうとも、生きれている。生きてこれた。

 

難題だろうが、飲み干して空っぽにしてやろう。

そう思えている。

 

 

だから2018年が来る前に言おう

「おい2017年!お前は残酷だよ。たった1年という期間に沢山の試練を与えてきすぎだ!一生許さねぇ。

だけどな、感謝してる。私はお前のお陰で変わろうと思えたからありがとう」と。

 

 

そして、君たちにも言っておこうと思う

 

ここから毎日、できるだけ毎日

ここを更新していきます。と。

 

(あーゆっちゃった…)

 

 

 

 

涙味のコーヒー

報われなかったのか?

私は私に勝てなかったのか?

 

涙味のコーヒーは何故か懐かしかった

こぼれ落ちるのを必死に堪えた頃が確かにあったのを思い出す

 

「どうして私には何も無いの?」

必死に問いかけて、閉ざされた扉は何故がとても眩しかった

必死に追いかけて、落とされた闇は何故かとても暗くて寒かった

 

私が犯した罪、過去からの報いだと思った

 

ひとりぼっちじゃ暗い、寒い

 

逃げ出さない私を、初めて落としてくれた

悔しい、できないのが、何も無いのが、何も出来なかったのが悲しい

 

そして周り見渡したら

やっぱり私、ひとりぼっちだった

 

もう1度、もう1度、もう1度

信じたい

 

 

逃げ出さなかった私を褒めてあげる

お願い、まだ少しだけ光を照らしていて

 

味の無い飴玉

「私は何もないんで、何もできないです。何もできなくなったんです。色んな人の足を引っ張ります、いつも期待を裏切ります。いつもです。いつもなんです。あぁ田舎に隠れないといけないでしょうか。でもそんな田舎に逃げてしまうような、私が私は嫌いです。」

 

匿名希望さん

「私は今のままのさあ子さんが好きですよ」

 

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昔、沢山の人の前で話をする時、私は向けられた人の視線に

「この人たちは何を求めていて、私を見てるんだろう」を考えながら話をした。そして、話ができた。

 

「さあこさんは本番に強いね」

「さあこさんがいてくれてほんとに良かった」

「さあこさんにはほんとに助かっているよ」

 

しかし、私はこんな言葉達を何度も跡形も無くなるくらいにすり潰しては「私は求められると疲れる」と吐き捨て続けた。

そう、沢山の人の“想い”を無下に扱って生きてしまった。

何度も何度も“期待”を嫌って生きてきてしまった。

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「さあこは頭がいいのにどうしてこうなったの?」

「君はどうして人と同じことができないの」

「どうして、君はいつまでも幸せになろうとしないの?」

 

味の無い飴玉を口に頬り込んで、いつかを待った。

いつか皆が私を諦める日を待った。

ポケットにはいつくもの飴玉を忍ばしながら、皆の“期待”が消えるのを待った。

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その日は空は雨をこれでもかってくらいに吐いて

傘のない私を濡らし続けた。

「どうしてこんなに何も出来ないの、私は私をいつか好きになれるの」

ずぶ濡れになったジャケットのポケットに手を入れて

あの日忍ばせた飴玉に触れて思い出した。

その飴玉をひとつ口に入れて、全く味を感じられない事に、味が無いことにこれでもかってくらいに泣いた。

空が吐いた水に紛れて、辺りを濡らし続けた。

 

 

そうだ思い出した。

わたしが“期待”を避け続けたんだった。

私が人の“想い”を殺め続けたんだった。

私がこうなる事を願い続けたんだった。

私のせい、私のせいだった。

 

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「さあこさんはこれするの上手ですね」

「私はさあこさんを期待してますよ」

 

その日

「わたし、まだやり続けます。期待し続けていきます。もっと皆さまの役に立てるように努力します」

を書き加えた。

 

「今月の目標は、文字をもう1度書いていきます。それと本を2冊読みます」と、定めた。

 

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あの日、ポケットの味の無い飴玉は全部捨てた。

もうポケットには何も忍ばせない。

いつか誰かに飴玉を貰える日まで、そのスペースだけを空けて。

 

0を100にするように、息をしなさい。

「毎日、嫌いになる」

求められない事に慣れてしまうと、人はどうなってしまうのだろう。

いつか“信じる”という事さえしなくなって、この世界を死ぬ為に生きるようになるのだろうか。

 

ずっと毎日のように好きだったものが嫌いになる。

いや嫌いになるというよりも、好きだったものが自分には適わない事に気付いていく。

 

音楽を聴くのも、才能を押し付けられているような気がして鬱陶しいし

本を読むのも、映画を見るのも、自分を律してしまうから無償に疲れてしまう

生きる事さえも、いつかは“楽しめるように”“笑えるように”“好きになれるように”とかで身体の奥から湧き出てくるエネルギーに身を任せながら勢いよく生きてきたはずだった。はずだったんだよ。

 

でも、いつしか

私は空っぽという事実から、避けるようになって、逃げるようなって、日々を過ごしていた。そして、それに慣れていた。

 

昔、星を見上げて、空を手で撫でながら

「ねえもっと見たいよ」と呟いた日の事を私は忘れた。

詰まらない日々を過ごしながら、何かに喰われていく事に抵抗をしなくなって

強くなったと勘違いして紡ぐ事を辞めた。

星は見えなくなった。いや、星を見る事をしなくなった。

 

私は世界に自分が適合するようにと、努力する事を辞めてしまった。

そして、ひとりの夜に「寂しい」と呟く人を、下らない。と思ったし

誰かがいないと何もできない人を、惨めだ。と思った

この世界にちゃんと溶け込んでいる、人間らしい人を見て

何度も何度も気持ち悪いと思った。

 

 

諦めて生きる事に慣れていたら

いつか当たり前のように求められなくなって

求められない空っぽな自分を責めたりしても、めんどくさくなって

遠い知らない街に旅に出たいとさえ思わなくなった時、私は私を責めることも、認めることも、期待することも全部辞めたんだと気付いた。

私は私を知ったんだ。と気付いた。

 

とはいえ、この世界はまだまだ生きていかないといけなくて

ご飯を食べるためにお金を稼いで、周りの人の目を気にしてお墓に一緒に入る人と、愛をしてるごっこをしないといけない

まだまだ騙し続けないといけない。

この世界が好きだ。と、騙し続けないといけない。

 

僅かな希望をいちいち手に取って声に出してみる

「私はまだ生きたい」

僅かな願望を、欲望を声に出して形にしなくちゃならない

誰かの目に入れてもらえるように

自分にはまだ出来ることがあるんだ。と騙し続けないといけない。

 

潜っていかないといけない。

そして深くもぐりすぎて何も見えなくなった真っ暗闇で光になれるんだ。と、思い込まないといけない。

 

だからこれからは

「毎日、好きになる」

汚いものを綺麗にする事だけに力を注ぐことにする。

失った、目に見えないものだけを、形にする事に力を注ぐ事にする。

今ならきっと0を100にできると思うから。