れしをそう。

嘘。そう全部、嘘。Twitter:@nisemonoko

涙味のコーヒー

報われなかったのか?

私は私に勝てなかったのか?

 

涙味のコーヒーは何故か懐かしかった

こぼれ落ちるのを必死に堪えた頃が確かにあったのを思い出す

 

「どうして私には何も無いの?」

必死に問いかけて、閉ざされた扉は何故がとても眩しかった

必死に追いかけて、落とされた闇は何故かとても暗くて寒かった

 

私が犯した罪、過去からの報いだと思った

 

ひとりぼっちじゃ暗い、寒い

 

逃げ出さない私を、初めて落としてくれた

悔しい、できないのが、何も無いのが、何も出来なかったのが悲しい

 

そして周り見渡したら

やっぱり私、ひとりぼっちだった

 

もう1度、もう1度、もう1度

信じたい

 

 

逃げ出さなかった私を褒めてあげる

お願い、まだ少しだけ光を照らしていて

 

味の無い飴玉

「私は何もないんで、何もできないです。何もできなくなったんです。色んな人の足を引っ張ります、いつも期待を裏切ります。いつもです。いつもなんです。あぁ田舎に隠れないといけないでしょうか。でもそんな田舎に逃げてしまうような、私が私は嫌いです。」

 

匿名希望さん

「私は今のままのさあ子さんが好きですよ」

 

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昔、沢山の人の前で話をする時、私は向けられた人の視線に

「この人たちは何を求めていて、私を見てるんだろう」を考えながら話をした。そして、話ができた。

 

「さあこさんは本番に強いね」

「さあこさんがいてくれてほんとに良かった」

「さあこさんにはほんとに助かっているよ」

 

しかし、私はこんな言葉達を何度も跡形も無くなるくらいにすり潰しては「私は求められると疲れる」と吐き捨て続けた。

そう、沢山の人の“想い”を無下に扱って生きてしまった。

何度も何度も“期待”を嫌って生きてきてしまった。

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「さあこは頭がいいのにどうしてこうなったの?」

「君はどうして人と同じことができないの」

「どうして、君はいつまでも幸せになろうとしないの?」

 

味の無い飴玉を口に頬り込んで、いつかを待った。

いつか皆が私を諦める日を待った。

ポケットにはいつくもの飴玉を忍ばしながら、皆の“期待”が消えるのを待った。

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その日は空は雨をこれでもかってくらいに吐いて

傘のない私を濡らし続けた。

「どうしてこんなに何も出来ないの、私は私をいつか好きになれるの」

ずぶ濡れになったジャケットのポケットに手を入れて

あの日忍ばせた飴玉に触れて思い出した。

その飴玉をひとつ口に入れて、全く味を感じられない事に、味が無いことにこれでもかってくらいに泣いた。

空が吐いた水に紛れて、辺りを濡らし続けた。

 

 

そうだ思い出した。

わたしが“期待”を避け続けたんだった。

私が人の“想い”を殺め続けたんだった。

私がこうなる事を願い続けたんだった。

私のせい、私のせいだった。

 

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「さあこさんはこれするの上手ですね」

「私はさあこさんを期待してますよ」

 

その日

「わたし、まだやり続けます。期待し続けていきます。もっと皆さまの役に立てるように努力します」

を書き加えた。

 

「今月の目標は、文字をもう1度書いていきます。それと本を2冊読みます」と、定めた。

 

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あの日、ポケットの味の無い飴玉は全部捨てた。

もうポケットには何も忍ばせない。

いつか誰かに飴玉を貰える日まで、そのスペースだけを空けて。

 

0を100にするように、息をしなさい。

「毎日、嫌いになる」

求められない事に慣れてしまうと、人はどうなってしまうのだろう。

いつか“信じる”という事さえしなくなって、この世界を死ぬ為に生きるようになるのだろうか。

 

ずっと毎日のように好きだったものが嫌いになる。

いや嫌いになるというよりも、好きだったものが自分には適わない事に気付いていく。

 

音楽を聴くのも、才能を押し付けられているような気がして鬱陶しいし

本を読むのも、映画を見るのも、自分を律してしまうから無償に疲れてしまう

生きる事さえも、いつかは“楽しめるように”“笑えるように”“好きになれるように”とかで身体の奥から湧き出てくるエネルギーに身を任せながら勢いよく生きてきたはずだった。はずだったんだよ。

 

でも、いつしか

私は空っぽという事実から、避けるようになって、逃げるようなって、日々を過ごしていた。そして、それに慣れていた。

 

昔、星を見上げて、空を手で撫でながら

「ねえもっと見たいよ」と呟いた日の事を私は忘れた。

詰まらない日々を過ごしながら、何かに喰われていく事に抵抗をしなくなって

強くなったと勘違いして紡ぐ事を辞めた。

星は見えなくなった。いや、星を見る事をしなくなった。

 

私は世界に自分が適合するようにと、努力する事を辞めてしまった。

そして、ひとりの夜に「寂しい」と呟く人を、下らない。と思ったし

誰かがいないと何もできない人を、惨めだ。と思った

この世界にちゃんと溶け込んでいる、人間らしい人を見て

何度も何度も気持ち悪いと思った。

 

 

諦めて生きる事に慣れていたら

いつか当たり前のように求められなくなって

求められない空っぽな自分を責めたりしても、めんどくさくなって

遠い知らない街に旅に出たいとさえ思わなくなった時、私は私を責めることも、認めることも、期待することも全部辞めたんだと気付いた。

私は私を知ったんだ。と気付いた。

 

とはいえ、この世界はまだまだ生きていかないといけなくて

ご飯を食べるためにお金を稼いで、周りの人の目を気にしてお墓に一緒に入る人と、愛をしてるごっこをしないといけない

まだまだ騙し続けないといけない。

この世界が好きだ。と、騙し続けないといけない。

 

僅かな希望をいちいち手に取って声に出してみる

「私はまだ生きたい」

僅かな願望を、欲望を声に出して形にしなくちゃならない

誰かの目に入れてもらえるように

自分にはまだ出来ることがあるんだ。と騙し続けないといけない。

 

潜っていかないといけない。

そして深くもぐりすぎて何も見えなくなった真っ暗闇で光になれるんだ。と、思い込まないといけない。

 

だからこれからは

「毎日、好きになる」

汚いものを綺麗にする事だけに力を注ぐことにする。

失った、目に見えないものだけを、形にする事に力を注ぐ事にする。

今ならきっと0を100にできると思うから。

 

 

あきれちゃった。

書けなくなっちゃった。

もう私から、何もうまれなくなっちゃった。

ついに空っぽになっちゃった。

大嫌いになっちゃった。

下書きに溜め込むのが上手になっちゃった。

 

ついに見られたくなくなっちゃったのかな?

誰にも知られたくなくなっちゃったのかな?

どうしちゃったのかな?

活字が嫌いになっちゃったのかな?

それとも、また感情なくなっちゃったのかな?

何も無い日々に殺されたのかな。きっとそうだよ。

きっと奪われたんだ。

 

 

ねぇ、見て

もっと見てよ、

何も書けなくなくて足掻く姿を見ててよ、哀れんでよ、お願いだから何もなくなっちゃった私も同じように愛しててよ

 

他人はいつも優しい。

いつだって私が迷子になっても、誰も手を引いてくれなかったし

『その道は間違っているよ』も『おいで』とも暗闇から連れ出してくれる事もなかった。

私が何度も躓き、どうしたらいいの。と立ち止まり泣いていても

『自業自得だ』と冷たい視線で現実を突きつけてくれた。

そう、他人はとても優しい。

私が誰かを求め泣いている事も、悲劇のヒロインを演じ、頑張ることを諦めようとしているって事も

すべてはお見通しで、だからこそ誰も手を差し伸べてくれなかったのだろう。

他人は私に厳しく、そしてとても優しかった。

 

 

確かに私は何度も間違った。何度も逃げたし、何度も何度も自分を責めてしまっていた。

だから、いつまでも愛されないのなんて当たり前だった。

自分を愛してあげられていないから世界に愛されないのなんて当然で、

何かを責めているようじゃ、何も越えていけないのも当然。

知っているし、理解もしている。

ちゃんと歩んでいかないといけないって解ってる。

 

でもどうしてなんだろう

やっぱり私はおかしいのだろうか

 

いつの時も、暗闇が嫌だって迷子になるのが嫌だって何度も抜け出そうとするのに

知り尽くした道を歩いて、安心を手に入れてしまうと

物足りなくなってしまう。

 

誰かが私を連れ出して、キラキラとした明るい道をこの目に映してくれたとしても

『私には似合わない』って逃げようとしてしまう。

 

私には真っ暗闇で

迷子になりながらでも手探りで、間違いながら生きていくほうが合っているような気になってくる。

 

内心は『もう若くないんだから』の無責任な言葉にも

少しの焦りも感じていなかったり

『もうそろそろ落ち着きたいよね』の言葉には、なんとなくだけど

『あなたの落ち着くと私の落ち着くはきっと違うし』と斜めから睨んでいる。

自慢できるような人生を語る人を一度も羨ましいと思ったこともないし

私はいつだって捻くれていて、いつだって逸れていた。

だけどいつも同じを演じていたかった。救われてみたかった。

 

もうちゃんとは生きていけないのだろうか

他人が示す“幸せ”を一度も“幸せ”だと思えないのは

もう“正常”を諦めないといけないのだろうか

 

どうして私が誤っても、当たり前だ。って目で見るのだろう

そうして私が迷っていても、いつもの事だ。と目を反らすのだろう

どうして私が独りぼっちでも、私の目の前を塞いではくれないのだろう

どうして私が人と同じになろうとしていることを“かわいそう”だって慰めてはくれないのか

どうして私は強いと勘違いされていて

皆と同じでいれないのだろう

 

いつだって不思議だった。

道から逸れている私に、なんの違和感も感じていない。もう誰も。

あきれられていることだって、既に知っていたけれど

私は普通になりたかったよ。いつも。

普通にキラキラとした道を歩いて、安心に寄りかかっていたかったよ。それでよかったのに

全部『おかしい』で済ましてくれる。済まされてしまう。

やっぱり、他人はいつだって優しい。私を甘やかさないし、優しすぎるから悲しい。

 

そう、この人生は自業自得だよ。知ってる。

私が選んだ道なのだから、私が到着地点を定めなくちゃならないし

私が見つけなくちゃならない

この人生は私のだから、私が完結させないといけない。

もういい。私が好きなら、それでいい。

 

他人はいつも私を見放してくれる。私を自由にさせてくれる。

他人はとても優しいから、他人は私になんて興味がないから

もう自由に生きよう。

他人の優しさが、もう息苦しい

もう優しくしなくていい。

私は絶対に不幸せになんてならないから、甘やかしてくれていいよ。お願い。

感謝に色を塗るのだろう。

仕事で疲れて帰宅しても真っ暗な部屋には熱が篭っていてとても暑かった。

それは、まるで“誰もいない”を叩きつけられてるようで、悔しくて仕方がなくて

今にも溢れだしそうな孤独を殺すように、クーラーの電源ボタンを押して

部屋が熱を逃がす前に、さっさと買ってきた中食を電子レンジにほおり投げ、特においしくもない夜ご飯をテレビを見ながら胃の中にいれた。

 

これまでの私はそんな風に“寂しい”を紛らわすように日々を喰っていて、

与えられたその“やるせなさ”を口にするのが何よりも嫌だった。

誰にも言わなかったし、言いたくなかった。意地でも。

その変わりに「帰りたくないなー」と口癖のように何度もボヤいた。

それに対して誰かは「なんで?」と聞いてくれたけれど、「家って落ち着くじゃん」と的外れな慰め方をしてくれた。

もう、どうしようもなかった。ただ流れるのを待つだけだった。

 

しかし今ではそれは少し前の過去の話であって、

懐かしい思い出として私は今日ここに残そうと思えたのである。

憎らしくて、厄介な私の中の“孤独”を刻み込んでやるんだ。

 

あの日までそんな“誰もいない”が“当たり前”だったはずなのに、

今では、帰宅すれば涼しい部屋が待っていて、部屋には必ず誰かがいて、もちろん部屋には嫌な熱は篭っていない。

玄関のドアが閉まる瞬間にはもう「ご飯は?」と声が聞こえてきて「いるー」と返事しながら、部屋着に着替える。

 

そんなみんなにとっての“当たり前”が今の私にはとても嬉しくて仕方がなく、

テレビを見ながら母の作った美味しいご飯を食べる時に「これが欲しかったんだ」と何となく欲しかったモノを思い出した気がした。そして、“孤独”が去った事を知ったのだ。

 

たしかにあの日“当たり前”は失われてしまったけれど

同時に、いつか消え失せてしまっていた“当たり前”をもう一度この手に戻す事もできたのだと気付いた。涙が出そうなくらい嬉しかった。

だけれど、そんな溢れ出る“感謝”をいつまでも途切れぬようにしようとすればするほど、

おっかなくも、日々、口に入れる全てのモノに突然“涙”が流れてしまいそうになる。

当たり前の“幸せ”というものは、こんなにも胸が熱くなって、愛おしくて仕方がないものなのか。と“当たり前”が零れ落ちないようにギュッと、私にしまい込んだりする。

 

悔しくて仕方がなかった「実家はいいなー」の言葉。

「みんなの実家とは少し違うんだよ」と下を向きながら返事をして、それ以上何も聞かれないように、

悟られないように、何も失わないように、私の中の“孤独”をねじ伏せ続けた感情。

 

しかし、今は違う

「実家なんだー。いいなー。」と投げかけられる言葉にも

「そうなんだよー、いいでしょー」と笑顔で返事する事ができている。

 

みんなとっては、そんな事なんて当たり前なのだろうし

当たり前すぎて可笑しくて、バカバカしいのだろうけれど、

でもみんなだって“当たり前”がいつ消えてしまうのかなんて解らない。

だからこそ、生活の中の“当たり前”に目を向けてみて欲しかった。

多分、有り難みなんて、失って気付くものなのだろうけれど、

もっと“当たり前”に感謝する瞬間が少しでもあったなら

あの日私に襲いかかった“後悔”はここまでじゃなかったのじゃないか。って感じるから。

 

 

夜に母がいて、ご飯を作ってくれたり、

夜に父と母がテレビを見ながら笑っていて、話し声が聞こえてきたり、

朝には弟の「いってきます」に、家族みんなの「行ってらっしゃい」がハモる事も

昼ごはんには弁当があるから近くのお店でご飯を食べなくていい事も、

全部

みんなには当然なのだろうし、感謝ができる瞬間では無いのだろうけれど

私にとっては格別だし、特別だからずっと抱きしめていたい瞬間なんだ。

 

もしも「今幸せ?」と問われたなら

私は迷わず「幸せ」と答えられる。

「どうして?」と聞かれれば、「家族が家族に戻れたんだ」と答えられる。

 

私がこの世界に産まれた瞬間から、父と母は私のそばにいた。

私が産まれてから3年経った頃には、そこに弟がいて

私達はそこからずっと家族だった。

“当たり前”だけど、ずっと家族だったんだ。

 

あと少しでやってくる8月7日には、私が家族を知ってから28年が経つようだ。

だから今年は「ありがとう」と言おうと決めた。

「私を産んでくれて、ありがとう」「私の家族でいてくれてありがとう」と。

 

もっと“感謝”を忘れない人でいたい。

これからは“当たり前”をちゃんと抱き締め続けられる人でありたい。

それは行動や、言葉で、形にする事で過去が報われるような気がするから。

もっと、もっと、大切な事をちゃんと覚え、感じ続けられる人になる為に生きようと思えた。

 

 

「ありがとう」をちゃんと口に出して、“感謝”に色を塗るんだ。

私はこれから、しっかりと生きてる人になるんだ。